こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ 権中納言定家
<健保六年(1218年)内裏の歌合の恋の歌 新勅撰集・恋三>
定家の家集『十遺愚草』下には、「建保四年六月内裏の歌合の恋」だとある。
直喩・序詞・掛詞・縁語・本歌取り あり。
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待っても来ないあの人を
私は心待ちする
まつほの浦の夕凪のなか
藻塩焼く火に
さながらわが身もじりじりと
恋に悶えながら
恋い慕いつづけているのだわ
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この集の原典選者といわれる定家自身の作。
この一首の「本歌」 (万葉集・巻六・笠金村の長歌)
・・・淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩焼きつつ あまおとめ・・・
「こぬ人を まつ」心を「身もこがれつつ」という状態表現でとらえ、その環境を思わせるように「序詞」で表現している。
夕なぎのたえがたいようなむし暑さ、息苦しさのなか、藻塩を焼く夕暮れは実景だけにとどまらぬ、詩的なイメージにまで高められていると言えよう。
刻々に変わる夕なぎの海辺に立ちのぼる煙は幻想的でさえあり、恋にみをこがす女性を描いて妖艶と言える。
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こぬ人を;
この歌は女性の心を詠んだもので、
「人」は恋人の男性。
「こ」はカ行変格活用動詞「来(く)」の未然形。
「ぬ」は打消の助動詞「ず」の連用形。
「を」は動作の対象を示す格助詞。
まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの;
この三句は「こがれ」を導く比喩の序詞。
「まつ」の部分が、「待つ」と松帆の浦(淡路島の北辺の海)の「松」との「掛詞」。
「夕なぎ」は夕方の凪(無風状態のこと)の時の意。
「に」は時を示す格助詞。
「焼く」は連体形。
「や」は語調を整える間投助詞。詠嘆。
「もしほ」は海藻に塩分を付着乾燥させて焼き、水を混ぜて煮詰めてとる塩。
「の」はたとえの格助詞。・・・ノヨウニ、本来は主語を示す。
「まつほの浦」は、淡路島の北端、岩屋の海岸である。
松帆の浦は淡路島北端の歌枕。
身もこがれつつ;
「も」は並列とともに感動も加わる係助詞。
「こがれ」は下二段活用動詞「焦がる」の連用形、胸もこげるほどに恋い慕う意で、「焼く」の「縁語」。
藻塩焼くと恋に焦がれるをダブらせるのも、古来からの常套語。
「つつ」は継続の意の接続助詞。
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藤原定家 ふじわらのさだいえ(-ていか)
応保二~仁治二(1162~1241) 通称:京極中納言
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藤原 定家(ふじわら の さだいえ、1162年(応保2年) - 1241年9月26日(仁治2年8月20日))
鎌倉初期の公家・歌人。諱は「ていか」と有職読みされることが多い。
藤原北家御子左流で藤原俊成の二男。
最終官位は正二位権中納言。京極中納言と呼ばれた。
法名は明静(みょうじょう)。
九条家に近く、土御門通親らと政治的には激しく対立した。
平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き、
歌道の家としての地位を不動にした。
代表的な新古今調の歌人であり、俊成の「幽玄」をさらに深化させて「有心(うしん)」をとなえ、後世の歌に極めて大きな影響を残した。
二つの勅撰集、『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』を撰進。
ほかにも秀歌撰に『定家八代抄』がある。
歌論書に『毎月抄』『近代秀歌』『詠歌大概』があり、
本歌取りなどの技法や心と詞との関わりを論じている。
歌集に『拾遺愚草』がある。拾遺愚草は六家集のひとつに数えられる。
18歳から74歳までの56年にわたる克明な日記『明月記』(2000年(平成12年)、国宝に指定)を残した。
明月記にはおうし座で超新星爆発が起こったこと(現在のかに星雲)に関する記述があり、天文学上、重要な資料となっている。
日記は他に、1201年(建仁元年)後鳥羽天皇の熊野行幸随行時に記した『熊野御幸記』(国宝)。
また、宇都宮頼綱に依頼され撰じた「小倉百人一首」が有名である。
春の夜の 夢の浮橋 とだえして 峯に別るる 横雲の空
大空は 梅のにほひに かすみつつ 曇りも果てぬ 春の夜の月
見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦のとま屋の 秋の夕暮れ
☆ 古い川柳に
「九十九は撰み一首は考へる」というのがある。この考えられた一首が、この「こぬ人」の歌であるというわけだ。百人一首の撰者である藤原定家が自ら撰んだ自分の歌である。古来、百人一首は謎の歌集と言われて来た。必ずしも名歌を撰んでいるわけではないようだし、有名でない歌人がはいっており、著名な歌人が落ちていたりする。また、撰ばれた歌がその歌人の代表作とはいいがたいものであったりする。宇都宮頼綱の依頼で山荘の襖を飾る色紙和歌を百首撰んだということが「明月記」に書かれており、これが百人一首成立の背景といえるが、撰考の基準はわからない。こんなわけで、何か隠された意味のある歌集なのだという憶測を呼ぶ。定家自身も「用捨在心」といっている。歌の撰考は定家の心次第というわけ だ。
『源氏物語』『土佐日記』などの古典の書写・注釈にも携わった。この際に用いた仮名遣いが定家仮名遣のもととなった。
また、「松浦宮物語」の作者は藤原定家とする説が有力である。