Ⅳ 日本人と朝鮮人
17世紀の実効的経営
大谷・村川家のいわゆる「竹島経営」は、1617年たまたま村川の商船が遭難して鬱陵島に漂着し、その物産の豊富なのに着眼して幕府に渡航許可を申請したのが発端で、朝鮮側の空島政策のおかげで、この17世紀の80年間だけ続いた。それは具体的には、春に数隻数十人の船団を組織して鬱陵島に渡り、1~2ヶ月採取活動を行って、順風を待って帰って来るということであるが、当時の技術からしてやや冒険的な事業であり、渡海免許当初の数十年間は、毎年恒常的に渡航していたかどうか疑問である。しかし1650年代から約40年間はかなりしばしば往来していたと認められよう。採取活動の主眼は、桐・センダンその他の価値ある銘木におかれていたようで、付随的にアワビとアシカの油などの順序であったと思われる。後者だけを目標とするには渡航はあまりにも冒険的すぎた。こうした一時的な「経営」の事実に「先祖が血と汗を流して築いた」というような形容詞をつけて誤ったイメージを与えることは犯罪的でさえある。それなら歴代の朝鮮人民が鬱陵島で流した血と汗はどうなるのか?そもそもこの時期の「竹島経営」の対象はもっぱら鬱陵島であって決していまの竹島=独島ではなかった。だから「竹島経営」の事実を論拠に日本固有領土論をごり押ししていけば、「それなら日本がまず領有を主張すべきは竹島=独島よりも鬱陵島である。そのかわり朝鮮は対馬を経営した事実があるから対馬は朝鮮領だ」というような八方破れの反論が出ても不思議はないのである。
こうした「竹島経営」と全く別途に、「松島(いまの竹島=独島)だけを対象とする船団が組織され「経営」が行われたと考えるのは無理がある。いかなる理由からか1661年に大谷・村川両家が、「竹島」とは別個に「松島渡海」の免許を得ている事実はあるようだが、それ以前もそれ以後も「松島」だけのために恒常的に出漁したとは思えない。アワビは、隠岐でも鬱陵島でもいくらも採れたろうし、アシカの油はまださほどの商品価値をもつものではなかった。「松島」には将軍様がよだれをたらしてほしがるような銘木もなかった。川上前掲書の提示する諸史料を総合すれば、当時の日本人の「松島」利用状況は次のごとくであろう。まず第1に、鬱陵島への航行の目標としては必ず利用した。しかし常時は沖合を通り過ぎるだけで、必ず寄港するということはなかった。はしけならともかく、大きな帆船が安全に接岸できるような地形ではなかったし、わざわざ上陸するメリットも、別になかったからである。だが、時には、風待ちの都合、またゆきがけの駄賃的な意味で小船をおろして上陸し、多少のアワビとアシカを採取することもあった。日本側が、直接にはこの程度のそれも一時的な事実を物語る史料をもとに、推論に推論をかさねて、あたかも恒常的な「松島経営」があったかのように描き出しているのは、フェアな態度ではない。
ところで、こうした大谷・村川両家の朝鮮政府の空島政策の間隙をついた「竹島経営」は、ついに1693年にいたり、やはり集団的に慶尚道方面から鬱陵島に出漁していた朝鮮漁民安龍福らとの大規模な争闘事件をひきおこした。安龍福自身の供述によれば、この時かれは鬱陵島も竹島=独島も朝鮮領土であることを主張して日本人を追い払い、93年と96年の2回にわたって追撃して日本に渡り(1回目について日本側の記録は人質として連行したと称する)、朝鮮政府の架空の官名を自称して独断で外交交渉を行い、丁重なもてなしを受けた。川上前掲書などが、安龍福の豪胆な行動をつとめて卑小に描き出そうとしているのを読むと、気恥ずかしい思いがする。ともかくかくして、問題は江戸幕府と李朝政府の公式外交ルートにのせられ、紆余曲折の後、1696年にいたり江戸幕府は「竹島(鬱陵島)」が朝鮮固有領土であることを確認して、日本人の渡航を一切禁ずる措置をとった。
この時、江戸幕府は「松島(いまの竹島=独島)」についても同様に渡航を禁じるのかどうかを明示しなかった。このため、「竹島」と「松島」を一体とみる通念からして、当然同様に禁じたとみる韓国・朝鮮側と、明文で禁じていないのは渡航を許していたということだとする日本側の主張が水掛け論になっている。だが、江戸幕府が「竹島」と「松島」の扱いを意識的に区別していたことを積極的に証明する史料は全くなく、逆に一体と通念されていた史料の方が多い。ただ一つ、1836年の石州浜田の回船問屋会津屋八右衛門の「竹島密貿易事件」の判決文に「松島へ渡海の名目をもって竹島にわたり」という浜田藩家老の言が引用されているものが検討に値するくらいだが、それ自体当時の少数説だし、この事件は、「松島」渡航の可否自体に判断をくだす性質のものではなかった。事実問題として、「竹島(鬱陵
島)」渡航禁止以後、独自の経済的価値のない「松島」だけのために渡航することも、幕末まですっかりなくなっていたことは確かである。「松島」単独渡航を積極的に証明しうる史料は一つもない。
この間朝鮮側でも空島政策が続いており、鬱陵島はともかく、竹島=独島の「実効的経営」がどの程度進行したかは定かでない。ただ安龍福のような行動半径をもつ漁民があとを断つはずはないから、民間の知見はいくらか拡がったかもしれない。それを反映してか、『正宗実録』1796年の項に、突然可支島の名があらわれる。この島名は明らかに可支魚(カジェ=アシカ)に由来するもので、韓国・朝鮮側では、いまの竹島=独島をさすとしているのに対し、川上前掲書は鬱陵島と竹島=独島の間を3日間で往復するのは不可能として、鬱陵島東北部とみなしているが、順風に乗れば3日間の往復も必ずしも不可能といえないし、記述と照合すれば川上の比定に合うような小属島は見当たらない。「実効的経営」の証明にはならないが、可支島を竹島=独島とみなすこと自体はそう無理ではないと思われる。
귀찮아서 중요부분만 빨간색 칠하고 번역.
이러한「죽도경영」과는 전혀 별도로, 「송도(지금의 죽도=독도)만을 대상으로 선단이 조직된 경영」이 행하여졌다고 생각하는 것은 무리가 있다. 어떠한 이유였는지 1661년에 오오타니, 무라카미 양가가「죽도」와는 별도로「송도도해」면허를 얻은 사실은 있으나, 그 전에도, 그 후에도「송도」에만 갈 목적으로 항구적으로 출어했다고는 볼 수 없다.
1696년에 와서 에도막부는「죽도(울릉도)」가 조선고유영토임을 확인하고, 일본인의 도항을 일절 금하는 조치를 취했다.
이 때, 에도막부는「송도(지금의 죽도=독도)」에 대하여도 똑같이 도항을 금지했는지는 명시하지 않았다. 그래서「죽도」와「송도」를 하나로 보는 통념에서 보면, 당연히 똑같이 금했다고 보는 한국, 조선측과 명문으로 금하지 않았으니 도항을 허가한 것이다라고 보는 일본측의 주장이 결말없는 논쟁이 되고 있다. 에도막부가「죽도」와 「송도」를 취급함에 의도적으로 구별한 것을 적극적으로 증명하는 사료는 전혀 없고, 반대로 통념적으로 하나로 취급한 사료쪽이 많다.
『정종실록』1796년경에, 돌연 가지도라는 이름이 나타난다. 이 섬의 이름은 확실히 가지어(가제=바다사자=강치)에서 유래한 것으로, 한국, 조선측에서는 지금의 죽도=독도를 가리킨다고 하는 것에 대해, 카와카미 전게서는 울릉도와 죽도=독도 사이를 3일에 왕복하는 것은 불가능하다는 것을 들어, 울릉도 동북부라고 보고 있지만, 순풍을 받으면 3일에 왕복하는 것도 불가능하다고 할 수 없고, 기술과 조합해 보면 카와카미의 추정에 부합하는 작은섬은 발견할 수 없다. 「실효적경영」의 증명에는 못 미치지만, 가지도를 죽도=독도라고 보는 것 자체는 그렇게 무리는 아니라고 생각되어진다.
梶村秀樹著作集第1巻 日本人と朝鮮人 明石書店 竹島の実効的経営 부분 발췌.